| ■ 美味しいモノと演出 |
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順調にすばるさんが「美味しんぼ」の続きを通常版でも買っているので、文庫を待たなくても雄山中毒症状はとりあえず癒せています。 一緒に「ヒカルの碁」の再読も進んでいるのですが、ヒカル達が回転寿司を食べに行く話でちょっと気付きました。 小畑健が幾らうまく寿司を描いても、美味しそうじゃないんですよね。 「美味しんぼ」にしたって、美味しそうだとは理屈で思わせますが、実感として「旨そう」と言うのはそれほどない。まあ、出てくる料理が殆どボクの食べたことのないようなものばっかりだから、感覚体験の共有がない性もあるんですが。 突然ですが、ボクはお寿司が大好きです。 母親がおみやげ寿司(波平とかが持って帰るアレ)の売り子をしていたので、あまったアレを毎朝食べていたからです。普通お寿司といえども毎朝食べたら飽きると思うでしょうが、お寿司ってのは凄いモンで今でも一番の好物と言っていいぐらい金があれば食べてます。 まあ、ボクは気に入ったら何日でも同じモノを食べ続けられる体質なので、お寿司がそういう魅力持っている論拠にはならないんですが…。 で、 お寿司なんですけど、アレはアレ自体の美味しさも凄まじいんですが、あの美味しさを「絵」で表現するのは殆ど不可能なんじゃないかと思います。 大体美味しそうな食べ物を絵で表現するのはかなり難しいと思います。味覚と視覚ってのは微妙に脳の認識部分が噛み合っていないのかも知れないですね。嗅覚はダイレクトなんですけどね。 となると、絵ってのはその味覚を脳に錯覚させる事で味わせるしかないと思うんです。まあ、それが「美味しんぼ」の場合は過剰なまでの絶賛表現だったりするわけですが、F先生の出した方法論は「食いっぷり」だったわけですね。 旨ドラの時は本能の赴くままに書き殴っていますが、あながちはずれではないなあと思います。ドラ焼きの画的な美味しさもあるとはいえ、殆どはのび太やドラえもんの食いっぷりや舌だしなんかで連想式に旨そうだと思わせる訳ですよね。想像力にうったえかけてくるので、逃れようもない旨そさといいますか。 で、お寿司と言うかなり漫画にとってはハードルの高い旨いモノはどう表現したかというとコレなんですよね。
ちょっと面白い話をしましょう。 ボクは以前魚屋さんで働いていたんで、刺身なんかも切ることが出来るんですが、この時実験的にサクのまま(あのブロックのような状態です)かじってみたんです。これがもう不味いの不味くないのってねえ。はははは。だって刺身って調理しないわけですから味は同じはずなんですよ。ところが不味い。包丁で切ってツマの上に綺麗に並べるのが刺身で言うところの調理と同義になるほど重要なんですね。実際にあれはかなりの鍛錬が必要なんですが、それにはそれなりの意味ってのがあるんです。不思議なモンですよまったく。 結局何が言いたいのかというとですね、食事と言う行為は結局五感をフル稼働させて「脳」が食べているんだろうなって事です。だから、匂いという味方がない映画や漫画や小説ってのには演出が必要であり、これは美味しいモノを美味しいと感じさせる事に繋がるわけで、それはすべからく面白いとか感動とか痛いとかと言う感情移入を促す事にも応用できるわけですから、美味しいモノを美味しそうに描ける作家ってのは演出力のある人なんではないかと思うわけです。 ・・・・・・・・・ 「美味しんぼ」なんですけど、50巻がまたたまらないオモシロでしたので、是非報告させて下さい。 50巻と言えば記念的な巻数なんですけど、意識したのかどうなのかかなり面白い話でした。 「黒いマスコミ王」と言う話がメインで、金上と言うクソ野郎が山岡達の東西新聞のっとりを実行する話なんです。 で、こいつが雄山に虚仮にされていてですね、それはもうかなり恨んでるわけです。まずその恨み辛みの表現が素晴らしい。 曰く 「人間としてこれ以下というものはないどん底まで蹴落としてやって、その人間が七転八倒して苦しんだあげく、自分で勝手に悶え死にするのを見て楽しむ……」 ってな調子です。全ての語彙がクソったれな所も凄いですが、こと雄山のこととなると輪がかかって面白い。 曰く 「何が何でもあの男を社会的に葬り、汚辱の沼の中にたたき込んで、悶死させてやらねばきがすまないのだ」 汚辱の沼の中って表現が雁屋節ですよねえ。悶死ってのも相当凄まじいですけど。 旨そうな表現をするときも語彙がやたらと豊富なんですけど、まあ恐らく根っからのペシミストなんでしょう、こういう罵詈雑言や恨み辛みのセリフの時のイキイキとした感じが素晴らしい。雁屋哲、本当はこっち側の人間なのは間違いないですな。 平気で 「愚か者どもが」 なんて言ったあげくにこの表情ですもん。
そして、栗田さんが雄山になんでこいつが雄山を恨んでいるか聞きに行くんですよ。 もう待ってましたってな展開。 色んな意味で個人的に現在最も大好きなキャラナンバー1の雄山ですが、またこれが やってくれます。 期待に応えるとはこのことですよ。いや色んな意味で。 いきなり 「ふうむ……誠に小人の心は度しがたい。いったいどうして、私をそこまで憎むのか……」 人に恨みを買うような人間は、そんな事いちいち覚えてないんですよね。しかも、思い出したエピソードが「忘れるかよこんな事!」としか思えないような結構な事なので、それをキレイさっぱり忘れているあたりが最高に笑えます。 それにしても「度しがたい」って一度は口にしたいセリフですねえ。小人なんて絶対に言えないですよ通常の人生を送っていては。くっそおお。 で、 「ははあ、あれか」 って思い出す。わはははは。 で、思い出すや論より証拠のつもりなのは分かるんですが、いきなり実物のハモを持ってこさせる。素晴らしい。持ってきてどうしようってんだ。 そして、訳を聞こうとする栗田さんにほだされて話し始める雄山ですが、その語りだしからしてコレ 「話すのも愚かなことなのだが、仕方がない。話してやろう」 ジョジョの奇妙な冒険のディオの魅力の一つに、絶対優位な言葉遣いがあるんですよね。必ず見下す喋りをする。自分を上に持ってくる表現をする。全てのセリフがそうだから、ホントに面白くて魅力的なんですけど、雄山の魅力もまさにソレなんですね。 「やろう」って。 そして雄山を事もあろうに「料亭のおやじ」呼ばわりした先のクソ野郎との丁々発止の駆け引きが大笑い&大魅力。 「金のために人間性の一番低劣な部分を煽り立てることに狂奔しているクズが、人間性の一番高いところを目指している朝斗先生に向かって、何をたわけたことをぬかすか!」 言いた過ぎ。どれもこれも言いたいけど、これを言えるのは雄山ぐらいだ。 しかもまだまだ続く 「おまえたちは泥沼の上に漂うあぶくだ!」 どうです、この素晴らしさ。先の「汚辱の沼の中」と言う表現がここにリンクしているわけですな。 そしてここまで言っておいての話の結びが又絶品。 「まったくあきれた男だ。何もかもあの男のひとり相撲なのに、この私をそれほどまでに憎むとは……」 この私! 確かに読めばそうなんですけど、微塵も自分が本質的に嫌われるタイプの人間であることにはてんで気付いていない所に雄山の魅力があるんですねえ。 ようするにコレ
雁屋哲は恐らく… 最後に雄山の〆の一言。 「その人間の作る料理を見て、その人間の心が読めないのなら、人間を辞めたほうがよい」 イってますなあ。究極の方向性が全然違いますが、この強引な料理へのこじつけが美味しんぼの魅力であり、雄山の魅力。 この魅力をかなり分かっていらっしゃるこちらのページも素晴らしいので一読あれ。 特にこのエピソードでの山岡の発想の凄まじさを的確に分析した「山岡さんの発想力」は必読です。 ではでは。 |